日曜のお昼下がりの下り電車にて。
今は、11月19日日曜日のお昼14時。
今は、奥多摩に向かってる途中の二俣尾という駅で発車待ちで、10両編成の長い電車の前から9両目の席に座っている。
同じ車両には、孫へのプレゼントなのかどこかの帰り道なのか、リボンのついた透明の袋に熊の人形を持った老夫婦。
日本語を話していないから日本観光で奥多摩へ泊まるのだろうか、欧米人の男女と、カメラを持ってサングラスをかけたアジア系の男性。
私を含めて全部で10名が乗っている。
電車が駅に停止すると、とたんに静けさに包まれる。心地いい。
7人がけのシートに1人しか座ってないので、荷物を横に置いて体を進行方向に向け、外の景色にうっとりしている。
目の前に広がる山肌。
植林されて間伐されて綺麗に並んでる。
私の足元に差し込む太陽は日差しは温かいが、もうこんなに傾いて、夕方になろうとしている。
穏やかだ。とても。
私は目の前の窓から切り取られた小さな景色に癒されそして興奮している。
この癒しに興奮している。
そうそうこれこれこの感覚!というようなドキドキする感じ。笑
そんなことを書き留めたくて手に収まるほどのiPhoneに向かって書いてたら、老夫婦は降りていなくなり代わりに別の断裁2人が載っていた。
はい、そろそろ情景描写終わります。なんだか小説みたい、黄昏ながら書いてました。
で、結局何が言いたいかってね、
おんなじ電車という箱の中なのに、
いる場所、いる時間、いる人によって全く別の空間になるということ。
そこにいる人の気持ちがどんどん伝播してく。穏やかなひとのまわりには、穏やかな空気が流れ、焦っている人の周りには焦りの空気が流れる。
ちょっと前に、supernova の話をしましたが、恒星のように周りに流されることなく自ら光を放つ人は少ない。
相互作用によって生きて生かされている。いや、生かし合っている。
太陽のように光を放ち照らす人。月のように光を受けて反射することで輝く人。
どちらにしても良い光で輝いていこうや。
あ、ちょうどついた。